浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

人生初カウンセリング

大分間が空いちゃいました

 書きたいことがなかった訳ではないのですが、気温の上下動に伴う体調の加減が余り上手くなくて、きっちりかっちり頭を使ってクリアに何事かを明文化する、というのに余り適した状態ではなかったので、無理に書くこともないかな、と思って少し頭を休憩させてました。

 それにしても、大概身内しか見ていないブログだと思っていたのですが、エントリーの一つに東小雪さんのお名前と著書名を記したことがあって、ですから彼女に何か動きがある度に凄くアクセス数が増えるんですよね。このブログの約2割程度は彼女関係のアクセスです。

 更には遂に退団発表となったちえ(柚希礼音)の名前も書いてある箇所があるのでそれでも偶に伸びます。どれもこれも大して面白い事が書いてある訳でもないのに、ヒットして来ちゃった方には申し訳ないなぁと思いつつ、相変わらず「主に内輪向け」的な文章をこうして書いている訳ですが。

 

慶應の先生のお診立て

 慶應内で一番摂食障害に強いというY先生に、直接診察を受けたのは三回ですが、その三回でなにをしていたかというと、今の私の状態に、カウンセリング、心理療法というようなものが有効であるかどうかという見極めをしていた、ということになります。

 私が普段お世話になっているH先生は、薬のチョイスがもの凄く上手で、かつ最新の情報を常にチェックしておられる方で、投薬療法に関しては安心してお任せしていられますが、認知療法、カウンセリングというような事には完全にノータッチの方です。ですから、患者の内側に踏み込んで余分なことを言ったりすることのない方で、それだからこそ私と相性が良かった、というのはあります。

 相当昔の話で子供でしたから記憶も曖昧なんですが、保健室の先生だったか児童相談的な臨床心理士さんだったのか、兎に角そういう関係の人に「それは大変だね」的なことを言われて、余りに子供だったので「お前に何が分かる!!」と激昂してしまい、以来カウンセリング、つまる所内側に踏み込んであれこれ言われるようなことを忌避していたきらいがあります。

 ですから、何も余分なことは仰らないH先生との相性が良いのですが、ただ、こと過食に関しては、H先生もあれこれ試しては下さったのですけれど、投薬治療では全く効果があったことがありませんでした。

 それを踏まえた上で、子宮の手術で入院する際に、今現在かかっている病院全ての診療情報提供書を貰ってきて、入院・手術で何かあった場合慶應内の科で全て連携が取れるように、各科を受診するようにという指示の下、慶應の精神神経科を初診で受診した際、初診の先生に診て頂く前にまず予診として臨床心理士の方にここに至ったまでの来し方、つまり生育歴含めかなり詳細なお話をすることになりました。

 その時にその臨床心理士さんは「それはお辛かったでしょう」とか「大変でしたね」とかそういう類の相の手を仰ったのですけど、流石に私ももう子供でもありませんし、それに何よりそう言って頂いたことで逆に「あ、やっぱり私のこれって辛いって言っていいんだ」「これってやっぱり人から見ても大変なことって言っていいんだ」と、この歳になったからこそ改めて思ったのかも知れません。実際お話ししたことで少し気持ちが楽になった部分がありました。

 ですので、Y先生にも私のケースにはカウンセリングは有効だと思う、と言われましたし私自身も、そうそうしょっちゅうしょっちゅう人に言うようなことではないようなことを、がっつりお話することの効果、今の自分に対する重要性を噛みしめた所もあり、Y先生のご紹介して下さった臨床心理オフィスの先生にかかることにしました。

 

基本カウンセリングは保険の効かない実費です

 Y先生とカウンセリングについてお話ししていた時に、一番重要視されたのが金銭のことでした。カウンセリングというのは基本的に週に一回決まった曜日の決まった時間にきちんきちんと通わなければならず、それを何ヶ月何年の単位で続けていくというのは、実費診療となるとかなり負担が大きいです。ですので、経済的な事情で中断する、ということになると、中途半端にいじくり回された心がどこへ傾くかわからない危険もあり、その点をY先生にも、それから実際にお会いした臨床心理士の先生にも念を押されました。

 その点については母に相談し、この際だから悪い所は元から断った方が良いし、バックアップするという了承を得て話を進めています。つまり、またしても私は自分が働いている訳でもなく、実家の経済状況を逼迫させる要因を増やした訳です。それについての後ろめたさや罪悪感や自責の念は当然大きいですが、かかりつけの方のH先生に「余分なことは絶対に考えるな」と念を押されてもいることですし、心苦しく思いながらも目をつぶって考えないようにしている現状です。

 それにしても今これを書いていてもの凄く不便を感じたのが、かかりつけの先生も、慶應の先生も、そして臨床心理士の先生も、アルファベット表記すると本当は全員「H先生」なんですよね(^^;;一々かかりつけのとか臨床心理士のとか書くのも大変なので、便宜上慶応の先生をY先生、かかりつけの先生をH先生、そしてこれからお世話になる臨床心理士の先生をS先生とさせて頂きます。

 

先日初めてS先生とお会いしました

 Y先生は、私のことについて個人情報に抵触しない範囲でざっくり説明をして、こういう患者さんがいるんだけれど、カウンセリングで効果があるかどうか、というような相談を予めS先生として下さっていました。そしてそこでのお二方の結論が「効果は期待できる」という事で、私にS先生をご紹介下さったという流れです。ですから、S先生はある程度は私の現状についての説明は受けていらっしゃる筈です。但し、余計なバイアスなくフラットな状態で私と直接話をして確認したい、ということで、1から10まで慶應でお話したことが伝わっている状態ではありませんでした。ですからまず、普通に初診の患者として問診票を書き、後は先生のご質問にお答えするという格好で初めての顔合わせはスタートしました。

 カウンセリングと一言で行っても、カウンセラーとの相性や、求める治療の方向性などもありますから、まずは会って問題点をまずお話をして、その後4回予診に近い面談を行い、その上で治療方針に双方合意が出来た時点でやっとスタート地点です。面談した上で、合わない、治療方針に納得がいかない、という事も充分有り得ますので、そこは遠慮をせずに駄目な物は駄目ときちんと意思表示することが必要になります。

 初回お会いした感じでは、私の方はまぁ大丈夫なんではないかなとは思いましたが、ここから先突っ込んだ話になってくるとどうなることかそこまではわからないので、兎に角心におかしなバイアスがかからないよう、フラットな状態で面談を重ねていけるようにコンディションを整えるのが大事かなと思いました。

 

リビドーが口唇期に固着している

 S先生とあれこれお話をしていて、先生が「今まで伺った限りだと、悪い方(過食など諸々)にも良い方(歌)にも、「口」という器官が貴方の問題にとって大きいように思う」と仰って、思わず「フロイト風に言えばリビドーが口唇期に固着してるって奴ですね(笑)」ってつい言ってしまったんですけど、口唇期に固着しているという事実自体は勿論、本人にも長年自覚がありました。猫達に超キス魔なのも、自分にとって肌触りのいいと感じられる物を口元に当てているとほっとするというか心地良いというかそういう傾向が強くあることも、その一言で説明が付きますから。伊達に哲学・人文コースは出てません(笑)。心ならずも履修した講義にはフロイトだとかユングだとか、必修で避けて通れなかった講義もありましたし。

 ただ、自分自身「リビドーが口唇期に固着」という事実を判っていながら、S先生がご指摘下さったようなアングルでその問題を考えたことがなかったので、そこに解決の糸口なり苦しみの端緒があるとは思ったことがありませんでした。50分間という決められた時間の中で、時系列順でもなく系統立ててでもなく時にはあっちこっちへ飛びながら語った私の言葉から、それがはっきりと判るということならば、そのアングルから果たしてどういう結論が出てくるのか、どういうベクトルへ鼻先を向けて下さるおつもりなのか、言い方は何ですけどもの凄く面白い、興味深いと感じました。ですから、今後の面談のお約束をし、S先生との初邂逅は終わった訳です。

 

その日の晩に過食発作を起こしました

 S先生との面談の帰り道、実家に寄って印象をお話しし、面談の上でどういう結論が出るかはわからないけれど、今の所私は手応えというか、やれそうという気はしている、という報告を母にして、S先生と話したことで少し心が軽くなった気さえして、そのまま暢気に家に帰りました。

 そして、その日の晩、最低最悪だった時程ではないにせよ、経験上割と激しい部類に入る過食発作に襲われました。恐らく、S先生とお話した内容が、かなり私の心の奥にまで突っ込む内容も含まれていたので、自分でも封印していた某かであったり、掻き回された反作用であったりで、そういう状態に陥ったのだと思います。

 逆に言えば、その日触れた部分が「痛い所」であったからこそ引き起こされた現象だとも思ったので、これから先ずっとこういう心理療法を続けていくのならば、またこういう発作であったり、あるいは吐いたり、苦しんだりすることも出てくる可能性はあるでしょう。

 その上で尚、躰の器官的な問題と、その躰を司っている私の心とのバランスをなんとか取っていけるようになるのであれば、続ける価値はあると私は思いました。蓋をしても駄目な物は駄目なのだ、というのは鬱が最低最悪に酷かった時に嫌と言う程思い知りましたので、だったら押し込めていた物をきちんと整理整頓しないことには私のこの先はないな、もっとはっきり言えば「母が死んだ後の自分の人生設計」というものが絶対に立てられないな、と思いました。

 良くも悪くも私は母に強い支配や影響を受けているので、今の段階で彼女が死んだ後の自分の想像がつきません。母も丈夫ではありませんし、いつ何時何があるかわからないのに、私自身がそんな状態でセカンドキャリアも何もあったもんじゃないですから、そこをクリアにしないと絶対に駄目だ、というのは強く思います。

 この何とも言い様のないもやもやした苦しみの中から脱せる日がくるのか、今の私にはわかりませんが、少なくとも過食に関しては友人Uの「大丈夫、終わりは来るよ」という言葉を半ば縋るように信じている現状です。

 

たった一回、たった50分間のお喋りでも

 今日は吹雪さんのレッスンでした。いつもの「阿修羅の儀」(毎回私のレッスンは世古さんの阿修羅を歌うことからスタートするのです)を終えた後、吹雪さんは中ちゃんの「見せ物小屋から」という、相当に昏い情念系の歌を選んで私に歌わせました。

 ここの所Wiiカラで地声で歌う方はあれこれ自分でも色々試していたりして、コントロールできる範囲内で曲に表情を付ける位のことはしましたけれど、基本的にはいつもと変わりなく歌ったつもりでした。でも吹雪さんには「今日のはライトだった」って言われたんです。

 基本こういう情念系の歌を私が歌うと、伴奏をしながら聞いている吹雪さんがしんどくなる程に、昏くどろどろととごった物が乗っかってしまっていたようで、それは勿論私自身のコントロールの外の話です。言いたくて言えない屈託だとか、積もり積もった鬱屈だとか、そういうものが多分吹雪さんのセンサーには引っかかってしまっていたのだと思います。「この位だと聞いててもしんどくない」と吹雪さんに言われましたが、特に私は何か特別な歌い方をした意識はありません。だとすると、背後霊のように私に取り憑いていた、もしくは隣の家の換気扇の臭いように止めようもなく洩れ出していた何かが、S先生と話したことでちょっと変わったのかもしれません。

 歌に関してこの状態を維持し続けることが出来るのかどうかは、引き続き吹雪さんとのレッスンとS先生との面談を続けていかなければ判りませんけれど、こういう余波もあるんですね。やっぱり「歌」は何も誤魔化せません。

 

喉には要注意

 毎週同じ曜日同じ時間がカウンセリングの基本なので、水曜の12:00から50分というお約束にさせて頂きました。水曜日はベルカントのレッスンの日でもあるので、カウンセリングからレッスンへ直行というスケジューリングに多少の不安がないではありませんが、双方の都合上その日その時間しか取れなかったので、余程のことがない限りは変更はないと思います。

 ですから、来週から水曜日はS先生と話してからベルカントのレッスンです。私は話すのが下手くそで、話が長いとかオチがないとかそういうことだけではなく、物理的に話す時の発声が下手なのです。ですから、50分話した後にベルカントのレッスンということは、喉の状態に充分注意を払わねばなりません。とりあえず水筒に神のお茶とのど飴は必須でしょうね。