浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

家族写真

11月2日は誕生日でした

 身近な人には良く言っている事ですが、私にとって、殊更に今の私にとっては尚のこと、誕生日とは「祝って貰う日」というよりは、一年間生かして下さってありがとうございます、と周囲の人達に「感謝をする日」であります。

 それまでも碌な生き方はしてきていませんでしたけれど、昨年7月、余りにも体調が悪くなりすぎて欠勤が増え、現場や同僚に迷惑をかける心苦しさから仕事を辞めさせて貰い、そこから経済的には親に援助して貰う形で療養生活という名の先の見えない「無職ヒキヒート状態」がスタートしています。

 その時の「体調不良」は片頭痛の異様な悪化でした。例年でしたらここまで激烈ではないという頭痛に連日、毎週襲われ、仕事を辞める直前などは、仕事に行かなければというプレッシャーと、薬の効かない痛みと、月に20錠しか出ない片頭痛専門薬の残り錠数との戦いと、いつ何どきどこで発症するか、極期にどこでいきなり吐くかという不安や恐怖と、諸々重なって殆ど錯乱寸前だったと思います。

 そんな事情で仕事を辞めて、慶應の頭痛外来の鈴木先生の所へ7年ぶりにまたお世話になる事になった訳ですが、慢性化して、しかも片頭痛の中でも最も難治性の薬害性頭痛に恐らく足を踏み入れていた筈で、それが一朝一夕に軽くなる訳もありません。正しく読んで字の如く「先は見えない」状態だった訳です。

 体調が悪ければ精神にも勿論影響します。就業出来ない焦りやままならない躰への苛立ちと、それを自分の力でどうすることも出来ない無力感で、その時分の私からは相当ネガティブな空気がダダ洩れていたと思います。

 かつての親友だった人は、そういう私を見ていて、心配な気持ちも、でも全部をケア仕切れない自分も、そしてネガティブな方に引きずられる事も、全てが嫌だったと言っていましたから、周りの人には本当に迷惑だったと思います。というか、今でも迷惑だろうなと思っています。

 ですから尚のこと、こんな私に「生きていて良いよ」と言って下さる方がいる、生かそうとして下さる方がいる、というのは、今の私にとって本当に有り難いことです。産まれてきてしまった以上生きなければならないので、例えそれが望まなかった生育環境であれ、理不尽や苦痛を押しつけられる日々であれ、乗り越えるなり恭順するなり兎に角それに適応して生きていくしかないですよね。そこで辛い苦しいの類を言っても仕方ないのでしょうが、どうしても堪えられない物が溢れだしてしまっているでしょうし、だからこそ、歌という叫び、祈り、解放する手だてを持っていなかったら、普通に私は生きていないか、発狂するかしていたと思います。

 

10月31日には素敵なライブがありました

 私の歌の師匠である石村吹雪さんと、大好きな歌うたいさんである世古武志さんの、ツーマンLiveがありました。正に俺得といった感じのブッキングで、一年半ぶりに実現した企画でしたが、またやって欲しいなぁ。二人とも、日本語が、言葉が、きちんと心に届く歌を歌われる、真性の歌うたいさんだと思ってます。

 そのLive中に世古さんがMCでこんなお話をされていました。最後の曲、「Father」を歌う前のMCでしたが、自分は続けてなんぼと思って誰に何を言われても音楽を続けてきていたけれど、ある時人から「稼ぎもないのに何が音楽だ。稼いでなんぼだろう」というような事を言われて、虚しくなったというか弱音が吐きたかったんだと思う、という内容でした。

 そのお話を聞いた後だと「Father」という歌の中には印象的に響くフレーズが幾つかあります。

道に迷って 心が折れても 抜け出した世界で

綺麗な花咲かずとも 生きて行っていいんでしょ

過ち繰り返すとも 胸張って生きてけるように

絶望だらけの世界に 少し臆病になってきた

僕はそれでも進むんだよね

 これらの言葉は全て、「Father」に肯定されることを前提としていますよね。私は、今の自分自身がこの言葉を吐いて、100%肯定される自信はありません。

 世古さんはきちんと働いて、その上で音楽をされています。何より、お金を払ってでも世古さんの歌が聴きたいという人達がいる歌うたいさんです。私は完全に今親がかりのヒキニートでありながら、吹雪師匠のレッスンにも、ベルカントのレッスンにも行っています。歌っていないととても生きていられないから、そういう私を知っているから、母は黙ってレッスン代を援助してくれている訳ですが、先日、かつて親友と言っていた人にそれこそどんぴしゃりで「稼ぎもない癖に何が歌だよ。働かないで生きていけると思ってるなら一生そうしてれば」とその点を批難され、否定されましたから、世古さんのMCもその後も歌も、かなり私の胸にはぐっさり刺さりましたし、足元の地面がすーっとなくなっていく感じすらしました。

 けれどやっぱり私は歌わないとおかしくなってしまうので、歌うことはやめられないと思います。誰に責められても否定されてもそれはどうしようもないことです。今すぐ死んで良いならそれは必要ないでしょう。けれど生きて行かなければいけない以上、水や空気が必要なのと同じ位切実に、私には歌という祈りと叫びという解放がどうしても必要なのです。

 そして、その世古さんに、誕生日のお祝いと共に「歌いましょう」という力強い言葉を頂きました。誰のことも救えない、誰の為にもならない、誰にも求められない、ただ私一人を生かす為だけの歌を、「歌っていい」と。こんなに心強い誕生日プレゼントがあるだろうか、という位力を頂きました。

 

町から写真屋さんが消えてますよね

 さて、いきなり話は変わるのですが、世の写真はデジカメどころかスマホのカメラ機能で充分、SDカードをお店に預ければプリントもしてくれるなんていう便利な世の中です。そうでない派も基本はデジイチに移行していて未だに36mm銀塩をやっているのは余程のマニアだけ、という事になります。

 記念写真を取るという感覚も昔とは違いますし、証明写真は駅前なりどこなりにある専用ボックスで事足ります。フィルムの現像にしろ、写真の撮影にしろ、プロの手を求められるのは職業カメラマンが必要な場面のみで、日常にそれが入り込む好きは昨今どんどんなくなっています。

 結婚式にはウェディングプランとして既にホテル付きのカメラマンが用意されていますし、成人式にしても大体そういう体裁に昨今はなっているようです。七五三とかはどうかわかりませんけれど、そういう時にきちんとした写真館に行って写真を取る、という文化自体が既に廃れているのかも知れません。

 数年前に一度母に洩らしたことがあるのですが、我が家には「現在の」家族写真というものがありません。私がいつも持って歩いている小さなフォトブックには、実父と母と幼い私が映っている物は入っていますが、今現在の「我が家」の面子の写真はありません。スナップなら多分何枚かはあるんでしょうけれど、焼き増しして貰うにも、母がフィルムをきちんと整理しているとはとても思えず、発掘できるかどうかすら判りませんし、大体三人で出かけている時には、誰かしらがシャッターを押していることが殆どの筈で、つまり誰か一人が懸けているという事になる訳です。

 今年、本人はそんなに大変じゃなかったですけど、病名だけならえらい大病をしましたし、周りにも沢山心配をかけましたし、もの凄くいたわっても貰いました。母は勿論ですが、殊にてっちゃん(義父)は、母方祖母の介護(遠距離なので主に運転と、祖母との面会で疲弊しきる母のサポート&金銭的な援助)までしてくれていながら、私が術後の大出血で大騒ぎした時も車を出してくれましたし、今の私のぶら下がりニート状態を黙って支えてくれています。今母は仕事を引退していますから、財源は彼の稼ぎのみです。

 母と彼の結婚を私は喜びませんでしたし、私から「普通の」学生生活を奪ったことについては未だに母を恨む気持ちは強いですが、彼自身に関しては特に思うことも最早ありません。寧ろあの気のきっつい母にボコボコにされているのを見ると、自分自身もされてきたことですから気持ちがわかってしまって、つい庇いたくもなってしまいます。母には「夫婦の間には暗黙の了承があるんだから口出すな」と言われますけど、あからさまに彼が凹んでいたり母が理不尽だったりすることもあるので、それを諦めているてっちゃんが気の毒になったって無理はないじゃないですか。私だってそうやって母にぼこぼこにされてきましたし。

 まぁそんなこんなで、別居はしているけれど、というか恐らく別居をしているからこそ、私は今の我が家の形はベストだと思っています。母と私の間にはまだまだ拗れたものが沢山ありますが、自分自身を生きやすくしてやる為には、どうしても私はそこを乗り越えなければならず、だからこそ今カウンセリングのお世話に何ぞなっている訳で、この昏い腹の底にとごった怨念は私の多幸感をただただ削っているだけだというのは良くわかっています。

 ですから、このタイミングでもう一度私は母に「家族写真が欲しいんだけどな」と言ってみました。最近町の写真屋さんが減ってるけど、何ならホテルにお食事にいったついででもいいし、青梅街道沿いに一件写真館見つけて電話番号も写メって来たからそこでも良いし、もっとちゃんとした所を探すならそれでもいいけど、兎に角三人での家族写真が欲しいなぁ、と。

 母はどうやらその話をてっちゃんにしたようで、じゃあ良い機会があったら、誕生日にでも、なんていっていたそうですが、誕生日当日実家にお茶を飲みに行った時、私が言い出すまで母はすっからかんに私の誕生日を忘れていました(笑)

 そんな調子なのでいつになるかはわかりませんが、「今の家族写真」を私のフォトブックに入れてもいいなと思ったのは、間違いなく去年から今年にかけての躰と心の辛さであることに間違いはなく、病気と一緒に自分自身の駄目さであり、そして自分を取り巻く環境の致し方なさであったりを、少しでも受け容れられる自分になりつつあるのなら、それはそれで良いことだと思うのです。

 

多幸感を阻害している色々

 昔々は根拠のない自信にあんなに溢れていた割に、自意識のバランスが「不惑」と言われる年を越えてすら、私にはまだ上手く取れていないようで、変な所で傲慢だったり変な所で卑屈だったり、そして自己評価が余り高くはありません。今なんか特にそうです。だって1年以上も無職のヒキニートですよ?それで歌だのなんだの好きなことだけはしていて、どんだけ甘やかされてるんだって話ですよね。そらー個人事業主として視野狭窄する程に必死に全力疾走していた親友の足手まといにもなろうってもんです。

 ただ、心療内科の先生に「今はセカンドキャリアとか就業とかそういうことは 絶 対 に 考えては駄目」と釘を刺されているので、なんとか何もしない、何も出来ない日々をやり過ごしているだけで、基本「こんなゴミは早く死ねばいい」とどこかで思っているのに余り変化はありません。

 辛うじて私をこの世に留めてくれているのが、大事な娘達(私の保護責任下の猫二匹)と、大事な友人達で、その為に生きる事を選択するにはどうしても歌の力が必要なので、この世に私を繋ぎ止めるともづなに、歌はやっぱり含められるでしょう。

 私の自己評価がどうであれ、私を知っている人達、殊に親しくしている人達の中には、それぞれの人の中に「私像」であったり「私のいるスペース」があったりする筈で、私がもしも自殺でもしようものなら、私はそれらの人達のその心のスペースを著しく傷つけることになります。大事な人をそんな目に遭わせるのは嫌なので、そしたらやっぱり生きるしかないですよね。

 私がカウンセリングに通い始めて、最初のうち暫くは母に進捗を報告していました。治療費についての判断をしているのが彼女なので、長びくようなら彼女の意見もあるだろうし、という配慮でしたが、これが裏目に出ました。

 予診は本来4回位で終了するはずの物でしたが次回で12回目になります。次回くらいで終われれば良いのですが、更に1回程度オーバーする可能性もあります。そんなペースなので母にそれを説明し、長くなるイコール余分にお金がかかる、ということなので、それでも良いかどうかを確認しました。

 その際、長びいている要因として、「私自身を生き辛くさせている柱が四つもあり、それぞれ個別に説明をしないとならないので」という前置きで、その四つの柱について「1:摂食障害、2:就業に関して(フルタイムの職場に復帰できる目処がない)、3:セクマイの自覚があること、4:母との確執」という風に説明したのですが、最後の一つで号泣されました。それはもう済んだ話ではないのかと。

 私の鬱が最も酷かった時、私はそれまで納得している「振りをしていた」母への恨み辛みをかなり強くぶつけるという事をしました。それは、鬱によってもう心に蓋をしていることが出来なくなってしまい、ずっと「蓋をしていた」その蓋が、はじけ飛んでしまったから起こったことです。鬱の症状が軽くなって、そういう事を母には言わなくなりましたが、心の蓋が壊れ、もう「全てを納得している振り」はできない、と言うことに代わりはありません。けれど、母の目には、「鬱が酷くなったから私に酷いことを言ったので、今は良くなったからもう大丈夫」と映っていたようです。というか、そう思いたかったんでしょうね。

 彼女には精神科医臨床心理士の区別も付いていませんでしたから、「今それを言うならじゃあ何の為に長々心療内科(精神科)にかかっていたのか?!」「一生それを言われるのか、自分はそんなに悪いことをしたのか?!」と逆ギレされました。そして「お母さんもう駄目だ…」と泣き崩れ、心が折れた、と言うようなことを言われてしまったので、それ以上の説明は出来ませんでした。

 私にしたら、そもそも精神科医臨床心理士は別物だから、精神科にかかることとカウンセリングを受けることは基本されていることが別のことである、ということと、別段母に対して恨み辛みを言わなくなったのは、それが消えてなくなったからではなく、鬱の状態が上向いたから、とりあえず何もない振りはできるようになっただけで、壊れた心の蓋が元に戻った訳ではないので、私はもうその点についてはなにも思っていません!という嘘を自分につくことは既に出来なくなっていて、その点が元に戻った訳ではない、ということを彼女に理解して欲しかったのですが、心が折れたと言われてしまっては追撃もできず、一応その後メールで、「今後カウンセリングの進捗は話さない&読みたくなければ以下のことは読まなくてもいい」という前置きの下、前述のことを説明はしておきました。彼女が読んだかどうかは知りません。

 

それでもやっぱり今「家族写真」が欲しいと思える

 母とは根本的な所で性質が絶対的に合わないということと、私の方で彼女に対するコンプレックスや恨みの感情を捨てきれない為にギスギスする、そもそも彼女自身がもの凄くキツイ性格で物言いも非常にキツイので彼女と話すとザックリ削られる事が多い、という訳で、一緒に暮らすというのはまず無理だというのは双方(であって欲しい…)納得しての今のスタイルです。

 それでも、母が祖母に面会にいって疲弊して帰ってくれば、流石に祖母の話を出来るのは私しかいませんし、祖母は母以上に頭のおかしい人なので(ぼけている事とは無関係に)、それを判っているのも私一人ですから、気遣ってお茶を飲みにいく体で彼女の愚痴を聞きに行ったりしています。

 てっちゃんとは向こうが割とアスペっぽい人なので人の心の機微に疎い為、逆に話をするのは気が楽ですし、行き合えば普通に会話します。

 「一般的・平均的」な家庭とはほど遠いと思いますが、これが我が家の「家族の形」なのだと最近になってやっと思うようになりました。多分大病したこととカウンセリングの二つの要因が私の心をそのようにしてくれたのだと思います。

 まだまだ苦しいことは沢山あり、悩まなければ行けないことも沢山あり、焦燥感も勿論ありますが、それはまだ私の躰や心を蝕む要因になってしまうからと先延ばしにしている分、先になったらきっと上詰まれ多分更にきつくなっているかもしれません。

 ですが、少なくとも去年仕事を辞めた時点で発狂寸前の苦しみっぷりだった自分から、確実に変化した物を感じることも出来ている今、まぁなんとかなるだろうという気持ちで兎に角日々をやり過ごしています。

 そんな中での誕生日でしたので、逆に心は穏やかでした。朝から素敵なメッセージも頂き、色んな方が祝って下さり、満たされた気持ちでその人達に心からの感謝を感じました。

 ですから、母とてっちゃんが出来るだけ早く家族写真を撮る機会を設けてくれるといいなと思います。いつ何時何があるかなんて分からないですからねぇ。