浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

親友のこと

混迷中の自分

 ここ何年か、私は随分体調を崩し気味で、特に去年からこっち酷い有様ですので、思考自体がネガティブな事が増えました。殊に具合が悪すぎて会社に行けなくなって仕事を辞めてからは、時間があって尚かつ具合が悪いのでネガティブな事ばかりを考えてしまうという、大変宜しくない状況だったりもします。

 親友が「ブログでも書いてみたら」と勧めてくれたのは、そういう私を見かねて、せめて考えるならネガティブではないことをという側面も、恐らくあったと思います。

 若い頃の自分は怖いもの知らずで根拠のない自信に満ち溢れ、大概傲慢な人間でしたから、弱者に対して恐ろしくシビアな言動を相当行ってきていたと思います。いざ自分が「体の事情で最早戦う事の出来ない弱者」になってみて、どれだけ自分が傲慢だったのか嫌と言う程思い知ることになるわけで、そういう過去の自分が傷つけてきてしまった人達については、本当に申し訳なかったと思います。ただ、それが自省なら良いですが、ともすると今の私では行きすぎた自虐や自罰になってしまいかねないのが面倒な所です。生来自堕落な自分を知っていますので尚のこと、手綱を放すとどんな怠惰へ転げるか分からないという不安からの過剰な自罰や、元が傲慢な人間なのも分かっているので、その点で奔放になるまいという謂わば周りの人に対する言い訳のような偽悪もそこには含まれていると思います。どんなエクスキューズをつけようと怠惰な事や傲慢な事は変わりない訳ですから、その言い訳は結局ただの言い訳で、分かる人にはただ鬱陶しいだけの事になってしまっているのに。

 

動かしてくれる力

 そういう私をその時その時間近でつぶさに見て、ずっと分かってくれている人が親友のKです。付き合いの長さと深さで言ったら彼女を越える人はいません。私は割と「自分自身で選択したのではない事」に半生を振り回されて生きているので、殊更に「自分で決めた事」「自分で選んだ事」にもの凄く拘る傾向があるのですが、流石にKの言う事にだけは素直に耳を傾ける事が出来ます。この人が言ったんでなければ聞けなかっただろうなぁと思う事は沢山あります。言われた事を即体現できるかどうかというのはまた別問題なのが残念な感じですが。

 彼女と私は、人としては割と対極にある人間同士だと思います。彼女がまず体を動かす人なら私はまず頭を動かす人、彼女が「うだうだ考える前に石橋はちゃちゃっと渡ってしまう人」で、万一割れたら割れたでそんなことは落ちた時に考える人だとすると、私は石橋を叩いて叩いて壊れるまで叩いてしまって、「壊れちゃったから渡るのやめた」で結局渡らない人だったりします。

 ただ、おかしなシンクロニシティというか、私と彼女は何か今までとはちょっと毛色の違う事、今現在の状況を変えようとする気持ちが起こる時期がちょっと似通っていて、例えば私が会社を辞める決意をしてその話をしようと電話をすると、彼女が「会社辞めた」ってその電話で言ったり、そんなようなタイミングの被りが結構あるのです。

 私は体調が思うに任せないのもあって、動けない分異様に頭だけを働かせてしまいます。そして石橋を叩いて渡らない嫌いもあります。そういう私に、動く為の力をくれるのが彼女だ思います。彼女がブレーキのないエンジンなら、私はエンジンのないブレーキ、だから彼女が何かの時に動きすぎたら、制動装置として働くのが私ですし、逆に私が過剰にブレーキを踏みすぎて寧ろ後ろに進んでるんじゃないかなんて言う時には、彼女が私を動かす力をくれます。

 別の言い方をすると、私は方向を示す風見鶏で、何かを指し示す能力はあるかも知れませんが、それは止まっていたら意味のない物です。彼女はその風見鶏に廻る為の風をくれる人です。風は、ただ風であれば時に暴風にもなりましょうけれど、風見鶏を回してくれる時それは確かに優しさと暖かさを持った意味のある風になります。

 

器であること

 近年の体調の悪さに加えて、年齢を考えたらそろそろ更年期障害への備えも必要になってくる私にとって、これから先、ただでさえ元々動かないのに、体がきかずに動きたくとも動けない状態というのは必ず来ると思います。というか、今ですら既にそんな状態です。そういう自分を責めた所で体調が良くなる訳でもないので、受け容れた上でこの先の事を考えられるようになるのに、ここの所の私は随分ジタバタ足掻いていました。何かしよう、何かしなきゃ、というただそれだけで何が今の自分に出来るのか、何が向いているのか、そういうことさえ少し棚上げにしていたかも知れません。偏にそれは、無理に無理を重ねて出来ていた事が出来なくなったことへの反作用でした。出来ない事を当たり前と認めた時やっと、じゃあ今の自分って何が出来るんだ、とすとんと考えら得るようになりました。

 元から私は、自分が何かを生み出す、創造性豊かなタイプではありません。ただ、自分のコレクター体質、知識欲、好奇心、そういうものに任せて、物や知識をやたらに溜め込んできている、そのストックは確かに膨大です。でも私自身がそれをクリエイティブな方向に活かせる人間でないのなら、そうしたものは丸々無駄になります。そうである自分に気付いた時、私は「自分は人に使って貰ってなんぼなんだな」と一度思った事があります。それは雇用されるされないの問題ではなく、私というこの無駄なメモリーを、引き出して使って役に立ててくれる人がいるならそれにしくはない、という事です。私は私自身が人を潤す水にはなれないかも知れません。ただ、放っておいたら形無いまま流れ去ってしまうかも知れない水を、器として留める事は出来ると思います。

 親友Kの言い方を借りて違うアングルで言えば、私は料理をしたり、人を温めたりする火にはなれなくとも、火に温められればお茶にもなれるし珈琲にもなれるし、汚れた人を拭く為のタオルを湿すことも出来るかもしれません。

 使って貰ってなんぼの無駄知識、無駄思考能力、無駄分析力を持て余している自分を、「器だな」と意識したのは実は相当昔の事だったのですが、ここ数年の自分の変調不調上下動で、すっかりそんな事さえ私は意識の外にやってしまっていました。ここの所何度かKと話したことでやっと落ち着いて、「あぁそうだった、私は器なんだから、それを分かった上で器然としていないと、使いたい人が使って良いのかどうかすらわかんないよな」と思い直せる状態になったので、Kには改めて感謝すると共に、私の周りの皆さんにはどうそ、この器で役に立つ事があればいかようにも使っていただけたらそれが幸いですと、改めてお願いしたい気持ちです。