浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

ファミリア

色んな場所で色々書きすぎて

 いよいよもってこちらが手薄になってきておりますが、ここはここできちんと残しておこうと思っております。大概SNSも増えてきておつき合いなどで相当掛け持ちをしていますが、mixiの日記はほぼリア友かもしくはかなり親しい、何を知られても別に今更痛くも痒くもない人達のみに限った公開にさせて頂いていて、mixiのつぶやきとtwitterはほぼほぼ同じ内容(偶に特定の誰かを狙ってどちらかピンポイントで、ということはありますが)をUPしていますし、FBはセクシャルマイノリティのサロンに入る為だけにアカウントを作ったので、基本サロンの方としか友達として繋がっておらず(例外は二人程いらっしゃいますがリア友ですし、事情はお話してあります)、必然的に話題もそのような話題に偏りがちです。

 最近になってアメブロtwitterの別アカウントを開始したのですが、そちらは完全に業務用というか、これからやっていきたいことの為に作った物ですので、相当オフィシャルというか限られた内容となります。

 身近なことでもなく、セクマイ関連でもなく、twitterで書ける長さでもなく、取り立てて業務用でもなく、それでいてある程度友人以外の人の目にも触れて欲しい、ということはやはりここに書くのが一番自分でもしっくりくるので、どんなに疎らになっても、場所だけは残しておこうと考えている所存です。

 

「スピリチュアル系」

 私はうっかり大学で哲学なんて物を学んでしまった為に、比較的直観よりも思考回路の方を優先する生き方をしてきました。

 ただ、昨今身の回りの変化も著しく、価値観も変化していき、心の有り様を今までのままにしておいては自分自身の為にならないと思うことも多く、カウンセラーの先生であったり、友人達であったりに、「ねばならない」や「こうではいけない」は排していった方が良いというアドバイスを幾度となく頂くようになって、もっと心を柔らかく持とうと思うと同時に、「旗幟鮮明」は私の長所でもありますが短所でもありますので、どんなことでも即決で白黒を付けず、とりあえずそういうのもありかもなぁ、という柔らかい心で一旦受け止めるという事をしてみようと心がけてみている最中です。

 その中で、自分が恐らく一番変わったなと思うのは所謂「スピリチュアル系」と言われる物に対する態度かなと思います。論理的でないことを嫌う傾向があったので、比較的忌避しがちだったんですよね。その割には日本人的八百万の神様の感覚はしっかりあったり、代々死に別れてきた猫達は、普通に家にいると思っていたり、都合のいい所だけはしっかりオカルトだった訳なので、要は自分が納得出来るか出来ないかの差でしかなかったのですが、何故か「いやスピ系はないっしょ」と思っていたんですよね。多分身の回りに占いやそういう物に「過度に依存」する人がいたからだと思います。

 人の言ってくれた事への過度の依存は、それがスピ系であれなんであれ、自分の頭で考えることの放棄に他なりませんから、自分の頭で考えてこそ、という私自身の考え方とは相反してしまう事が多く、そういう事例だけをもってして忌避していたのだなと今では思います。

 

Jinaとの出会い

 Jinaはセクマイサロンで知り合ったお友達です。彼女は日本人ですが、ミャンマー仏道の修行をして、日本の仏教で言う所の戒名、キリスト教的に言えば洗礼名のような物としてJinaという名前を持っています。アメリカ綴りのGenaではなくJinaという所が殊更に彼女にぴったりしている気がするので、私は普段から当たり前のように彼女をJinaと呼びます。本人も特に嫌がっていないので特に断ってもいないです(笑)。

 Jinaはかなりスピリチュアル系の人ですが、なにせミャンマー仏道の修行だの、風水は10年やってただの、そこら辺のなんちゃってスピリチュアルと比べると余りにも経歴がガチなのと、何よりスピ系に対してガードがある筈の私の心にも、彼女の言葉というのはとてもすんなり入ってきてくれます。その辺は多分Jina本人の持っている性質も大きいのかなと思います。

 なので、彼女に対してオープンマインドになって行けば行く程、他の物に対しても「別にありじゃん」と思えるようになっていき、勿論中には未だにちょっと受け容れがたいような物もあるといえばあるのですが、基本「そういうのもありでいいんじゃない?」という風に受け取るように昨今はしています。

 

ファミリア

 私は普段、我が家の猫や家族や自分が撮った好きな写真や昔の自分の写真を入れた小さなフォトブックを持ち歩いています。別に人に見られて困る物は入っていないので、ちょっと見せたいなと思った人には気軽に見せる事にしていますが、最近そこに「最新の家族写真」が追加されました。つまり、「母とてっちゃんと私」の写真です。実父と幼い私と母との、ちゃんと写真屋さんで撮って貰った家族写真はあるのに、今現在の家族である三人での写真がないというのが、もの凄く近年気になったというか、それが欲しくなって、何年か前から事あるごとに家族写真を撮ろう撮ろうと言ってきていて、それがこの間実現したので、スキャンしてフォトブックに入るサイズにして追加したんです。

 なのでこの間Jinaに会った時にその家族写真を見せたら、ほぼ予備知識無しの状態で彼女は「あぁ、 このてっちゃんて人凄くオーラが大きくて深いから、一見お母さんが助けてるように見えるけど、この人のオーラに救われてるのって多分お母さんの方だと思うよ」とすぱっと言い切ったんですよね。なので、あ~Jinaはそういうのも見えるのか~と思っていたら、その手前にあったうちの娘達の写真をみて、「ファミリアだね」って言うんです。だから聞きました、ファミリアって何?って。そしたら返ってきたのが以下の内容です。これは口頭で聴いた物を後からもう一度Jinaに文字で書き起こして貰ったもので、UPの許可は貰ってます(笑)

「ファミリア」は元々ケルトウィッカン(ケルトの伝統魔術師)達の表現で、ティンカーベルの様な人につく妖精を指します。

ファミリアの特性としては、主人から生体(多くがエーテル層)エネルギーを貰う代わりに、主人の魔力や集中力の向上・感情起伏の安定・察知と警告・身体結界等を行う事が役割として与えられている事が多いようです。

ファミリアにとっては、それは大きな徳積みとなるので次の魂のステージに進みやすくなり、主人にとっては物理現実世界での現実化の助けや術のサポート等を受ける相互補助の関係にありますが、通常はファミリアの方が少し得をするバランスになっていると言われています。

ファミリアは様々なタイプがあり、現代の市街環境では動物(特に猫やカラス等)が多く見られます。他にも石の精霊(パワーストーンブレスの中に宿っている妖精)や植物の精霊や、実際に(ティンカーベルの様な)本物の妖精もありえます。

日本的な表現でいう「肩の上に乗っている小さな福の神」や「座敷童」や「頃ぼっくる」等は、これに近いといえるかもしれませんが、彼らは必ずしも人につくわけではなく、家についたり土地についたり等の違いがあり、正確に言うと「人につくという意味でのファミリア」とは異なる広義のフェアリーに入ると思います。

動物の魂は、大きく3段階の成長があり、

  1. 魂が生まれてから時間が浅く、何も考えていない様な生物として生きている段階
  2. 自意識が生まれて、好き嫌いと若干の愛情で動く(いわゆる一般的な動物の)段階
  3. 自己意識がはっきりとしていて、思考も存在し、まるで人間に近いような意識を持っている段階

ファミリアは、ここでいう第三段階目にあたり、自己意識と判断によって主人の味方やサポートとして行動するのが大きな特徴です。

また、進化が進んだファミリアの中にはエレメント(冷や水等)の属性を持っているものや、第三密度と第四密度を行き来できるもの(身体の物質化と量子化が出来る)等も存在します。 高次のファミリアの典型的な例は、エルフワイズマンのユニコーンや仙人の麒麟(聖獣の麒麟)や妖精王のエレメント(水の精霊)などが、それにあたります。 このレベルになると、既に5~6次元まで進化した存在になります。

という事で、ファミリアについての概要でした。

BY じーな(*'ω'*)b

 

私が貰っていただけじゃないなら

 うちの子たちはファミリアだね、というのを最初に聞いた時、本気で泣くかと思いました。っていうか、涙が出そうな程嬉しかったんです。だって、私が愛してるだけじゃなくて、娘達も私を自分の意志で、選んで、愛してくれてる、って事ですし、なによりも、私が癒されてるだけでなく、私自身があの子達の為になれてるんだっていうのがもうホントにホントに嬉しくて。

 更にJinaは深海と真空ではなく、シャーリィの写真を見て「 この子特に人間みたいな子だねぇ。めっちゃ強い意志というか、自己というかがガツンとある」と言いまして、もう本当にその通りでゴザイマスと(^^;;

 シャーリィは今の娘達、深海と真空を飼う直前に飼っていた子で、時期としては母との血で血を洗う修羅の日々に我が家にやってきて、その母とてっちゃんが実家を離れ、イギリスに行くの大阪に行くのオーストラリアに行くのという状態になって、実家で私と二人きり、互いが互いしかいないような殆ど共依存的な癒着の仕方になってしまった子です。

 元から私は「猫は猫っ可愛がりする為に飼うもんだ」と言って憚らず、我が家の猫はみんな蝶よ花よと風にも耐えぬ深窓の花状態で育ててしまいますが、シャーリィは殊の外気が強く&難しい子で女王様気質、でも昼間私が仕事でいない間構ってくれていた母がいなくなってしまってからは、いる時に構えるだけ構って貰おうと思ったのかもの凄い甘ったれの我が儘娘になりました。

 なんていうか、その時その時の私の年齢や状態によって猫との関わり方も変わるので、シャーリィの前に飼っていたラブちゃん(こんな名前ですが男の子です(__;))は、完全に母の恋人(当時母はシングルでしたから)で私のお兄ちゃんでした。その伝で言うとシャーリィは、特に二人っきりになってからのシャーリィは、完全に私の「愛人」でした。妻でも恋人でもなく「愛人」。そして見事なまでに「愛人道」を全うして2005年1月23日、送り雪が舞い散る中美しく身罷りました。

 その子がまるで人間の如くガツンと強い意志と自己を持って、私を愛していてくれたのだとしたら、ペットロスで半狂乱になって、人生初の鬱を患う程思い入れていた私の心は一方通行ではなかったのだと、それだけでどれほど私は救われることでしょう。死なせてしまった後悔、最後のああすればよかったこうすればよかったは一生消えることはありませんが、でもあの子がちゃんと何かを私から得ていてくれたのだとしたら、それだけで本当に私は心から救われます。

 Jinaの前ですから、そこで泣いても良かったかも知れません。その位、嬉しい言葉でした。

 

自分に出来ることだけを

 人生において猫が途切れた時期というのは、ほぼそれぞれと死に別れた直後の49日間のみ、という私ですから、人生設計として猫がいないという選択肢は有り得ません。ただ、猫の寿命と自分の寿命の目算からして、あと何回飼えるだろうとか言うことはそろそろ視野に入ってきます。なまじ一度エンディングノート書いたりしましたから。

 今の子達があと10年生きたとして、そこから更に乳飲み子ちゃんを貰って20年、という自信は流石に私にはないので、どこかのタイミングで今の子達と一緒に新しい子を飼う算段をし始めることになるかもしれません。

 ただ、いつも思っているのは、どんなに猫が好きでも、私に出来ることには限りがあります。動物は保険が利きませんから、飼い始めにはワクチンだの避妊だのと初期費用が結構かかります。躰の弱い子ですと獣医さんにかかる度に結構な出費です。ご飯とトイレだって馬鹿にならない出費です。そして何より、万が一災害があった時、連れて逃げられるのは何人までだ、と考えると自ずと限界は出来てしまいます。

 財力と広いお家があれば、私だって杉本彩さんのようにそこら中の猫をみんな助けたいです。でもそれは私の身の丈で出来ることではないので、どんなに可哀相でも、どんなに身を切られるように辛くても、出来ないことには絶対に手をださないことにしています。近所の地元猫が死にかけていても、です。責任が持てないことは心を鬼にして全力でスルーです。

 だからこそ、出来ることは精一杯したい、自分の家の娘達は世界一幸せでいて欲しいと思います。なので、「ファミリアだね」という言葉が、泣く程嬉しかったのです。

 我が家のファミリアちゃんたちに、私に出来る精一杯で幸せにいてもらうことが、私だけの為でないと保証して貰ったようなものなので、それだけで私は幸せです。

 その昔、若くて怖いもの知らずで何も判っていなかった馬鹿な私は、人生の意義、生きる喜び、最大の人生の幸せを「愛し、愛されて生きること」と言っていました。あの時とは全く違う思い、違うアングルで、今の私もそう思っています。少なくとも私の愛している娘達が、私を愛してくれているなら、今の私は相当満たされて幸せな訳です。

 教えてくれたJinaに、心からの感謝と愛を(*´ー`)