浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

「あげ」と「のに」には要注意

嬉しいプレゼントを頂きました

 昨日晩ご飯を食べに実家に寄ったら(入院中手配出来なかった数日分の調整食の発注を母に頼んだので今は実家に届いているのです)、私宛の荷物が届いておりました。差出人は友人SC。mixiでも繋がりがあるので、足あととかイイネとかで私の近況については気にしてくれているのが判っていたのもあり、時期的に考えたらお見舞いかなぁ、気を遣って貰っちゃって悪いな…なんて思いながら荷物を開けたらば、ぱっと見た瞬間に判る「手編み」。もうその瞬間にそれだけでテンション上がりまくりました。だって手編みですよ~!同じような物は売ってるかも知れませんけど、一目一目私の為に作ってくれた人の気持ちがこもっているものはこの世に二つと無い訳で、そういう気持ちが凄く嬉しいじゃないですか。

 荷物には手書きのお手紙がついていて、"色んな事をして貰ってばっかりなのに自分は何の役にも立ってないし、何ができるだろうと考えて、自分も虫垂炎の手術痕が古傷で痛むので麻の入った夏でも使える毛糸でハラマキを編んでみました”…というような内容でした。

 私の部屋の窓は南向きで三階建ての三階、冬場は暖房要らずですけど、暑くなるともう早々にエアコンを入れないととても眠れたもんじゃない熱帯部屋です。なので今ももうエアコン付けっぱなしで寝てる状態なんですけど、お腹の弱い私にはそのエアコンの冷えが結構堪えます。ですから正に当を得たおあつらえ向きのプレゼントだった訳で、早速昨夜から使わせて貰ってます。寝相の悪い私がケットを蹴っ飛ばしても、お腹に全然問題が起こらない快適具合。素晴らしすぎます。

 

「して貰った」なんて彼女は言いますが

 彼女に私がしたことなんて、ホントに他愛ないというか、まず自分の欲望ありきなことばかりです。彼女がミュージカルに凄く感銘を受けた!と言っていたので、あ、じゃあオペラは?と一緒に誘ったことがありますけど、そんなのあわよくばオペ友を増やしたい下心満載じゃないですか。

 顔のパーツが点と線で構成されているからお化粧映えがしない、みたいなことを彼女が言った時に、いや待て、やりようはある!といって、女性ポートレートばかりを撮っていた時代に培った「他人の顔を塗る」手段の中から、凹凸を付ける化粧の仕方のポイントを、彼女をうちに呼んで実地で色々試したことがありますけど、それだって、私がやってみたくてしたことです。人の顔塗るの好きなんですよ、自分の顔じゃ出来上がりは一通りというか、自分の顔なりにしかなりませんけど、人の顔ってやっぱり自分じゃ似合わない色とか使えるので、画材的な意味でやたらめったら色物の化粧品を持っている私は、それを使えるのも嬉しいですし。なにせ化粧品買う時のエクスキューズは「私には似合わない色だけど、でもでも撮影で使うかもしれないし!」でしたからねぇ、がっつり写真撮ってた時はずっと。

 彼女も歌を歌う人で、歌うって場所で私達は出会っているので、お互い喉は大事です。私は身近に英国留学してアロマセラピーをがっつり勉強してきた人がいましたから、彼女のアドバイスを貰いつつ彼女に紹介して貰った本を参考に、風邪でも特に喉に特化した自分用のブレンドのレシピを持っています。彼女が風邪を引いて喉の調子が悪そうだった時に、もしかして効くかも知れないから良かったら使ってみて、と差し入れたことがありますけど、それも自分のレシピが役に立ったら嬉しいっていう、まず自分の、なんとういか、エゴ?そんなものありきですもの。

 私は周囲の大人(特に働いていた母親に対しては殊更にですね)の顔色を窺って、迷惑をかけないように先回りして気を遣っていい子でいる、という幼少時代を送った名残でしょうが、大変に甘え下手です。偶に親しい友達に苦笑いされる程、どこまで赦されるのかとか、どの位の加減でとか、そういう事が全く分からずに途方に暮れる事が今でも多いです。流石にこの歳にもなれば面の皮も厚くなりますし、この人は甘えても大丈夫な人、とかそういう加減が少しは判るようになってきましたが、やっぱりもの凄くその点は下手くそというか不器用です。

 だからでしょうが、人を甘やかす方が気が楽です。甘やかすというと偉そうな言い方になってしまいますが、自分が何かをして貰うより自分が動いて何かをする方が、「なにをどうしていいんだか加減が判らん」ということがありませんから、甘えるのと甘やかすのとどっちがいい、って選択肢があれば迷いなく甘やかす方を選びます。

 それはまた「本当は甘えたかった自分」というのがいて、他人に対して自分がして欲しかったのにして貰えなかった分、自分が他人にすることを代償行為としている所も大きいです。だから、私が人を構うのは、言ってしまえばもの凄い自己満足な訳です。

 大体この世には「ありがた迷惑」という言葉もある通り、何かをして貰ったからってそれが意に沿う物とは限りません。自分が何かしたからって、それが相手の為になるのかどうかなんて全く判らないことですし、だからこそ、自分がしたいからしているだけ、その先のことは知らん、というのが私の身勝手なスタンスです。

 なので本当は彼女が「して貰ったのに自分は…」なんて思う必要なんか全然ないんです。私がしたくてしたことで、それで喜んで貰えたならラッキーで凄く嬉しいですけど、そうでないからって別に凹んだり相手に対してどうこう思ったりなんてはしません。

 

して「あげた」なんて凄くおこがましいじゃないですか

 私の祖母は今認知症でまだらボケの状態です。その祖母がよく口にしているらしい(私は親類縁者には全く関わる気がないので母からの伝聞でしかしりません)ことが、「あれだけ色々世話してきてやったんだから、今度は自分が面倒を見て貰って当たり前」というような事だそうです。しかも娘である母に対してならまだしも、もの凄く遠縁の人達に対してまで同じ感覚でいるそうです。傍目に見たら母なんかもの凄くめちゃめちゃ祖母に尽くしてますけど、それを祖母は当たり前だと思っているので、何かあってできなくなった時に「してくれない」という文句は死ぬ程言いますが、色々している母に対して、してくれてありがとうなんては全く思っていません。

 昔の人で田舎の人だから、その辺の感覚は勿論私とは全然違うでしょうけれど、そもそも「してあげた」って何だよ、って私は思ってしまいます。先述の通り世の中には「ありがた迷惑」という言葉だってあります。必ずしも自分がしたことが感謝されることとは限りません。よしんば感謝して貰えたとして、そこに見返りを求めるのはどうにも私にとっては「浅ましい」と感じられてしまいます。

 何の根拠があってそこまで自信たっぷりにして「あげた」なんて言えるんでしょう。自分がしたことの結果がどうなるかなんてわからないじゃないですか。だから私は自分がしたことは、したくてしたこと、という所でそれ以上のことを考えません。勿論迷惑だったら言ってね、とは思いますけれど、極々親しい友達になんかはもう、ありがた迷惑承知の上で、これは私の趣味の押しつけだけどそこはもう許して!というプレゼントなんかしていたりもします。主な被害者の皆さんいつもすみません(^^;;

 して「あげた」の上に更に「のに」が付いたりしたらもう最悪ですよね。「してあげたのに…」に続く文脈はどう考えても「…してくれない」という風にしか読み取れない訳で、それは最初の自分のアクションが、相手からの見返りというリアクション前提だったという事になりませんか?そんな押しつけがましいこと、図々しいことがよく言えるな、と、「恥を知れ」という母校の校訓を思い出して私なんかは身が竦んでしまいます。誤解を受けがちなので付け加えておきますが、我が校の校訓は、己に対して常に「身を省みて己の分際を弁えるべし」という意味であり、他人に向かって吐かれる言葉ではありません。もう一つ、我が校の校訓には「らしくあれ」というのもありました。これも似たようなことで、「背伸びをしたり萎縮したりするのではなく、常に己を省みて明朗にその時その時の身の丈であれ」ということである、と私は理解しています。

 

「してあげたのに」なんてことを言い出したら

 世の中の大半のお母様方は子供に対して幾らでもそれが言えてしまうでしょう。子供が思う通りに育たなかった時、「あれだけ○○してやったのにこの子は…」なんていう文脈で来られたら、もう既にきちんと己の人格が出来上がっている子供は、途方に暮れるしかないですよね。

 世の中には保護責任というのがありますから、親は子供が成人するまでは面倒をみる責任があります。それは自分が子供を産むという選択をした時点で判っていることですし、親子とはいえ血は水より濃いとも限りませんから、産まれた子供が自分がどんなになにをしたって、思うようにはならない、ということだって沢山あると思います。したことがそのままストレートに自分の意に沿うように子供に伝わって親にフィードバックされる物なら、我が家の、私と母の、私が成人するまでの間の血で血を洗う修羅場や、今なお重く私自身にのしかかってきている母とのこじれなんて全く有り得ないことになります。そうでないから私が精神科のお世話になる羽目になる訳です。

 そりゃ、何かをする時に、全く結果を考えない、良い結果を期待しないなんてことはないでしょうけれど、それはそうなったらラッキーっていう位のことでしかないと思います。こうしてあげたんだからこう返ってくるはずなんて、何の根拠もない希望的観測ですよね。そうとばかり思ってしまったら、思った通りのリアクションがなかった時に、自分がしたことの徒労感や、相手に対する怒りや失望が生まれてしまうと思います。アクションを起こしたのは自分であり、そこは自分の意思ありきでスタートしている事に、いわば人を巻き込む訳ですから、思った通りのリアクションがない事の方が寧ろ多いんじゃないでしょうか。その都度怒ったり恨んだりしていたら、自分自身の多幸感すらすり減らしてしまって、誰一人として得をする人がいなくなってしまいます。そんな虚しい事ってないですよね。

 

石橋を叩いて叩いて大破させて渡らない

 とまで他人様に言われたことのある私ですから、何事か事を起こす時には常にあらゆる可能性、あらゆる結果を想定します。勿論最悪の事態も。そういう意味では私は常に準備万端で最悪の事態を想定しているペシミストとも言える訳です。だからこそ「何かをした所でそれが最高の結果で返ってくることなんか稀にしかない」という前提で、人に対して何か働きかけをする時にもそのつもりでいる、というだけの話なのかも知れません。

 世の中には楽天的な方も当然いらっしゃるでしょうし、私みたいに間の悪い人間ではなく幸運に恵まれてきている方もいらっしゃるでしょう。そういう方はまた違う考え方もされるのかなと思います。

 ですから、これは他人様に対して押しつける価値観としてではなく、寧ろ自戒の意味で、して「あげた」なんておこがましい、ましてしてあげた「のに」なんて他人からの見返りを当たり前と思うような思い上がりはすまい、と思っているだけの話です。

 ただやっぱり、「してあげたのに~~してくれない」って自分が言われると、さもしさの様な物を感じてしまってもの哀しい気持ちになるんじゃないかなと思います。この歳にもなればいい加減人に対してギスギスしていたくない、余裕のある、できれば豊かな心で接したいという気持ちにもなってきていますから(気持ちになっているだけで全然実践できてないのが実情でしょうが)、余計にそう感じてしまうでしょうね。

 いずれにせよ、私が人に対して何かをすることは基本私がしたくてしていることです。その点について「お前にはエゴしかないのか」と昔つっこまれた事がありますが、はいその通りでございます、とその時も返しましたし、今でも同じように思っています。

 なので、私がもしも「~してあげたのにな」とか言い出したら、ぴぴーっとイエローカードを出してやって下さい。寧ろ一発レッドでも良い位でしょう。根拠のない自信っていうのは、若さ故の驕りでしかないですから、流石にこの歳になってまで振り回していていいもんじゃないよなぁと思う次第です。