浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

「何を着たらいいかわからない」

私が直接聞いた訳ではないのですが

 世の一定以上の年齢の女性には、少なからずある悩みなのだそうです。それを聞いた私の一番最初の感想は「羨ましいなぁ」でした。

 つまり、ある日突然何を着たらいいか判らなくなる人達というのは、それまで「何か」を元にして自分の服を選んでいたと言うことになります。具体的に言えば、赤文字系と言われるような女性誌、ファッション誌を見て、「あ、これいいな」「このモデルさん素敵だな」というので、それと同じブランド、似たようなデザイン、そういう物を選んできていて、そのモデルケースが年齢によって途切れたから、「あれ?何着たらいいんだ?」という事になる、という風にも捉えられるからです。

 モデルケースをなぞってそのままアラフォーまで来られてしまうということは、その人は極々平均的な体型だった、という事を意味します。流行り廃りの服なんでまず7号か9号(もしくはSML)しかないような服ばっかりですからねぇ。

 ですからとても平均的とは言い難い体型の私は「羨ましい話だ」とも思う訳です。

 

これまでの私の体重の上下動は非常に極端でした

 高校2年で部活を休部するまでは平均体重そのものでしたけれど、まずそこから2、3年で20kgくらい増えており、その状態で大学卒業まで過ごした記憶があります。その頃は今程大きいサイズを展開してくれる洋服屋さんも多くはなかったですし、サイズのある物の中から好みの物を選ぶ、という選択しかありませんでした。

 大学卒業後、一時期ダイエットをして標準体重に戻した時には、明確に「自分変革キャンペーン中」でしたので、それまで白(生成含む)黒グレー、良くて赤、しか着たことのなかった自分が、敢えてのピンクとか薄紫とかパウダーオレンジとかもの凄いチャレンジをしまくった記憶があります。水色とか青とかも試してみましたが、その極端なキャンペーン期に、自分には寒色は似合わないし好きでもない、とはっきり判ったので、以降寒色はいずれの場合に於いても選択肢に殆ど上りません。

 キャンペーン終了後、という訳ではなかったのですが、またしてもある時期20kgぐらい体重が増えた時には、大体色味としては両極端を押さえた後でしたので、右左を押さえて真ん中を取るが王道(勿論孔子様の中庸論が発端です)、という己のポリシーに則って、というかもう単純にサイズのある物から好きな色しか選びたくなくて、色は赤系パープルが増えました。デザインに関しては、これは以前のピザ期も同様でしたが体の線ができるだけ出ない物、と言うことになります。で、そういう格好って基本楽なので、あ、これがいいや、となって以来、体重が増えようが減ろうが、体の線が出るような服はどうしても何かの事情(冠婚葬祭とか)がない限り着ない、色は暖色、基本赤とか赤紫とか場合によってはピンクとか深緑が好き、という所で落ち着いています。

 なので「何を着たらいいかわからない」という経験を私は未だかつて一度もしたことがありません。だって限られた中から好きなものを選ぶしか方法がなかったのですもん。どれからでも好きなように選べる体型の人には、恐らくそういうとば口の狭さがなく、目に入る物全て着られる前提だからこそ、そういう悩みって出てくるんだろうなと思います。

 

極端の良し悪し

 体重に限らずですが、私は自分自身の基本的な性質をとっても、それから家庭環境を取っても、どれも平均的とは言い難い極端さです。ですから敢えて「普通」を標榜したがったりする訳ですけど、本当に平均的に育った普通の感覚の方は、敢えてそれを「標榜」なんてはしません。

 ただ、極端であるが故の良いことというのが一つだけあって、それは早々に自分自身や自分の周りを客観的に見ることを余儀なくされる、ということです。普通(平均的)なお家で普通(平均的)に育っていれば、「普通って何なんだろう」ってまず考えることが不必要だと思います。他者と比べてみないと己の特殊性というのは判りませんが、例えばのっけから片親というのが明々白々な場合、比較せずとも最初にある事実がもう「お前は普通の家の子じゃない」と言っているも同然です。ですから「普通の人ってどうなんだろう、普通に振る舞うにはどうしたらいいんだろう」と幼い頃の私は非常に周りを気にする子供でした。なので逆に母親に「普通」という単語を出されると激昂しましたね。「普通ってなに?誰が決めたの?どういうものなの?」という風に。何となくで私につい「普通」なんていうと面倒くさいと言うことを母は何年かかけて学ぶことになります。ついでに「女の子なんだから」という奴も私の逆鱗でしたね。

 まぁ我が家の事情はさておくにしても、体重にせよ性質にせよ、極端な人間というのは、己の極端さ、そのとんがった部分であったり余分な部分であったりを嫌と言う程本人が痛感しています。ですから、そこから選べる範囲で選んでいくと、自ずと好みの傾向が判ってくる、そして嫌いな物の傾向も判ってくる、という点では、一つ客観視という視座が早くに持てるのかなと思います。

 ただ、極端であるということは、過剰な部分であったり過疎な部分であったり、いずれにせよ某かの欠損や突出を抱える事にもなりますから、徒にそれを野放しにすると人を傷つけ自分も傷付くと言うことが少なくありません。

 何事も右左の両極を押さえてから真ん中を取れれば一番良いことなんでしょうけど、何となく目盛りは左でもなく右でもなく真ん中当たりをふわんふわんしていたら、その目盛りに両極があるということすら知らずに済んでしまいます。それで済めばそれで済むに越したことはないだろうと、私なんかは思ってしまうのですが、ずっとそれできていて、ある日突然「何着たらいいかわからない」ってなった時、どうやってそれを構築していったらいいのかその拠がないというのも、心許なくて気の毒な話だよなぁとも思います。

 

ノンデリ=ノンデリカシー

 私は比較的ノンデリな部類なので、多分目の前で「何着たらいいか判らないの」と言われたら、「そんなの、好きな洋服着てればいいじゃない」と当たり前のように言ってしまいかねません。だってサイズが入るなら好きなだけ好きなお洋服を選べる訳ですから、予算の許す限り好きなものを着れば良いと思うのです。でもどうやら世の中的に、着る服が判らなくなる人というのは、つまり自分が何が好きなのか、何が似合うのかがそもそもわからないからその陥穽に陥る訳で、そういう人に「好きなもん着ておけば?」というのは甚だ不親切な訳です。

 姉キャンから行きなり婦人画報には行けない、というような方の場合、じゃあヴォーグは?とかコスモポリタンは?とかストーリーは?とか、まずはそういう、今までその人達がお手本にしてきた物の類似品からが一番無難なんでしょうね。

 ただ、それだといつまで経っても客観の視座がないまま、そうした雑誌はある年齢でぶちっと途切れますから、その時また同じ悩みは発生する訳でただの時間稼ぎにしかなりません。

 手っ取り早いのは好きなブランド、もしくは今まで良く着ていたブランドに行って、予算を告げて、店員さんにコーディネートしてもらうことでしょうね。これなら幾つになっても大丈夫。流石に洋服売り場のフロアをウロウロしていて「あ、ここはちょっといいな」「あ、これは私にはないや」っていうブランド別の好み位は何となくでも分かるでしょうから。

 それに、好みが偏っていない固まっていない、ということは良いことも沢山あります。私のように頑固に好みが固まってしまっていると、肌の色や髪の色顔立ちに対して、実はあんまり似合っていなかったりしても好きだから着てしまっている、という事も充分に有り得ます。対してそこが緩やかな人は、客観的に見た店員さんとかの「こういう感じも素敵だと思いますよ」というご提案を受け容れやすい、つまり幅が広がりやすいということもあります。そこから意外な発見があったりもするので、人に聞いたり任せたりは別に悪いことではないと思います。

 そしてぐるっと最初に戻る訳ですが、普通で平均的でずっと来られた方は、私の目から見たらやっぱり「羨ましい」です。私にはそういう柔軟さが全くないですから。