浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

藤原定家の話をします ※追記

寝込んでおります(進行形)

 壮一帆の早すぎる退団のショックで…という訳でもないのですが、なにせこの荒天ですので片頭痛的に流石に何事もなくという訳にはいかず。少しは良くなったので起き上がってみたのですが、さりとて片頭痛的には音も光も余り過剰に摂取してはいけないというか、すると割と辛くなるので(私は光に対する反応は殆どない方ですが)、余り宝塚ばっかり見ている訳にも行かず、音ゲーのスコアアタックもそうそうは…という状態なので、とりあえず好きなものの話でもしていれば気が紛れるかと思いまして。

 

藤原定家の短歌が好きです

 無人島に一冊だけ持っていくなら私は間違いなく藤原定家全歌集を選ぶと思います。ただ、「一冊」と言われると微妙な所で、私は流石に原典そのままで何も見ずにすらすら行ける口ではないので、「久保田淳先生の解説付きの河出から出ている奴」というのが希望なのですが(国書から出てる奴なら一冊で済むんですけど)、あれって上下巻なんですよねぇ。だから「一冊」って言われたら多分悩みに悩んだ末に下巻を持っていくんじゃないかなぁ。「一種類」なら問題なく上下巻とも持っていきますけど。

 なにゆえそこまで彼が好きなのかと問われると「愛に理由はないぜ」としか言い様がないのですが、強いて言うなら刷り込みだと思います。

 私の母の実家はお正月に親族が集まると必ず百人一首かるたをする家でした。何故かはわかりません。兎に角そういう習慣でずっといてたらしく、私が産まれてからも変わることはなく、幼い頃からそれを横で見ていたり、ちょっと育ってきたら小さいなりに参加したりしていました。

 皆さんご存じの通り百人一首の編纂をしたのは定家です。しかもかなり恣意的な選定ですよね、あれ。この人でこれを選ぶ~?趣味でしょあんたの、的な。物によっては言葉の使い方とか自分で直しちゃったりもしてますから、あれはかなり定家個人の色が強く出ていると私個人は思います。勿論個々の歌は個々の歌人の物ですから定家とは何の関係もありませんが、本人の歌も入っていることですし、人生初定家と言われたらあの百人一首なんだろうなぁと思います。ですから物心すらついていない頃から、と言えます。

 彼の名前を意識してちゃんと出会ったのは小学生の時、多分四年生くらいだったと思いますけれど年齢は定かではありません。

 私が育ってきた過程で私の母は、子供のオモチャ欲しいわがままは却下しても、本が欲しいを却下したことは一度もない人です。片親育ちの一人っ子で鍵っ子ですから、当たり前のように本の虫になりました。人生で一番本を読んでいた時期はおそらく小学生の時なんじゃないか、という位手当たり次第に本を読み、また買い与えられてもいました。その中に小学館(だったと思います)が出していた「日本古典文学全集」というシリーズがあって、その何巻かに古今新古今辺りの和歌をまとめた物があったと記憶しています。万葉集から竹取物語やら義経記やら平家物語やら、新しい物は近松くらいまであったような気がしますが、私の記憶が正しければ編集者はそれぞれにその分野の一級の専門家の方々で子供向けだからこそ丁寧に平たくされていたように思います。そして古今・新古今の編集は久保田淳先生だったように思います。

 その巻の終わりに程近い所に定家の歌が紹介されていました。今見れば他愛のない歌です。全歌集にも、確か正式には載っていないというか、本編中には載っていないような扱われ方の歌だったと思います。そういうものを久保田先生が何故選んだのか、恐らく他愛ないが故に子供の感性でも判る歌だと思われたのではないでしょうか。実際、小学生だった私の心はその歌に強烈に心を掴まれました。

 みしはみな ゆめのただちにまがひつつ むかしはとほく ひとはかへらず
今はこれが定家の晩年の歌だと知っていますから、あの癇の強い人がよくこういう境地に至ったものだと、そうした感慨もあったりします。

 

かなり面倒くさい人です

 藤原定家という人は、そばにいたらまず仲良くしたくないタイプの人ですね。頑固で我が強くてプライドが高くて才能はあるけれど、下手をすると才気走りすぎて心が伴わない作品を作ってしまったりするような、そして、自分が信じる歌の道が正しいと信じて疑わず(というか、疑ったとしてもそれを認めないタイプの人です)、それに抵触するとなれば時の帝にですら失言暴言の類を吐いて出禁になるような世渡り下手です。しかも父親がまた凄く才能のある人で、才能のある人が故に息子の才能が恐ろしくぬきんでていると判ってしまって、スポイルしちゃったもんですから、ホント手に負えません。感じ悪いことこの上ない人です。

 彼の作る物は徹頭徹尾作り物です。もの凄く精緻で美しい作り物です。実際女性と付き合ったことなんかないんじゃないかっていう節すらあるのに、あれだけの恋の歌を残している位ですから推して知るべしというか、それだけのドラマが体験に基づかずとも作り出せてしまうだけの才能はあった訳です。

 しかしそれだけの才能がありながら、それだけでは出世が出来る世の中ではなかったので、そういう意味ではもの凄くエリートコース、エリートに対するコンプレックスも強い人でした。

 やなやつでしょ、こんなオヤジ。

 

職業=自分である、と言い切れる人と言い切れない人

 歴史的背景は面倒だから省きますけど、時の権力者はというか、定家と最も密接に関わりのあった偉い人は後鳥羽院です。年齢差は18位後鳥羽院の方が若かった筈です。

 後鳥羽院はそれこそ絵に描いたようなエリートです。エリートというか産まれた時からロイヤルですし、文武両道に優れ(だもんでうっかり承久の乱とか起こしちゃう訳です)、格好良くて粋で、無粋をこの上なく嫌う人でした。

 後鳥羽院新古今和歌集の編纂のメンバーに定家を選んだ人です。定家の歌をとても評価していたことは間違いありません。しかし、後鳥羽院口伝に態々書き記させる位の対立もまたしています。双方歌に関して譲れない諍いがあったことがそこから読み取れます。

 何事につけロイヤル様な後鳥羽院からしたら、歌は場にそぐう粋が一番なんでしょうが、定家はそうは言いません。歌はどんなシチュエーションとも切り離して、何事にも頼らずただ歌として力がなければ歌ではないというのが彼の主張です。

 後の世からその二人の言い争いを見ている分には、まぁ場にそぐうとかそぐわないとか、その場にいない私にはわからんから私は定家に一票だな、という感じなのですが、後鳥羽院の視線も判らないではありません。彼は何をどうしようともロイヤル様なので何をやっても歴史に名前が残ることが前提です。そういう己の身を突き放して見ることの出来る視座を彼からは感じることが多いです。貴人(とうとびと)が何をしようとまず素晴らしいのが前提なので、それをより高めようとしたら場にそぐう粋が相応しいでしょう。

 それに、原始アニミズム神道を根に持つ本地垂迹された宗教観を背景に考えれば、その当時芸術(という言葉はありませんでしたが)というものは、人間の個が云々ではなかったはずです。自然に供え、自然をショーアップする手段が当時の「歌の道」ではあったと思います。その考え方を本道とすれば確かに定家の主張は邪道なのです。

 ここで、定家の「名をなしたい、名を残したい」というコンプレックスと執着の強さが表れる訳ですが、場にそぐうのそぐわないのはそれこそ先述のように歴史でそれを見る人間には関係のないことです。そして藤原定家は職業=歌人でありますから、歌で歴史に名を残すより他ないでしょう。その歌は、歌単独で力を持たなければ歴史には残りません。職業=俺だけどなにか?という後鳥羽院とはそこが違う所です。

 二人の年齢差がそこまで開いていなかったら、つまり後鳥羽院がもう少し老境の域に達していたなら、そういう定家(年寄り)の我執も理解できたでしょうが、お若い後鳥羽院からしたら我慢のならない無粋だったに違いありません。

 どちらが正しい正しくないというお話ではないですし、後の世から見ても私は二人のどっちの歌も好きです。ただ、私が「過剰」や「外連」を捨てきれない、中二病の尻尾をくっつけて「生々しい現実より綺麗な作り物の方が好き」なままでいるものですから、定家がの方が好き、ということになるだけです。

 

三島由紀夫が一枚噛んでます

 直前に書いた通り、「過剰や外連を捨てきれず、中二病的綺麗な非現実を愛している」私が、三島由紀夫を好きなのは至極当然であるかと思います。まぁ今となってはそこまで傾倒できるかと言われると、頭の良さの意地の悪い皮肉を言わせたら右にでるものなしとは思いますが、最期のあり方も含め、切ない気持ちで「馬鹿な奴」と思います。それを言えてしまえるから彼は女性が嫌いだったのでしょうし、その辺の精算は本人も「サド公爵夫人」できっちりカタを付けていますから、その後の彼は死ぬ準備をしている彼でしかありませんので、痛々しくて私は余りマジマジとは見たくありません。

 「豊饒の海」シリーズを完結させて彼は自決しますが、実はもしもあそこで彼が死んでいなかったら、次に書くのは藤原定家の話だった、という説というか風聞があります。なるほどなと両方を好きな私は納得する訳です。

 両者共にもの凄く綺麗な作り物を作れる人達であり、我執、コンプレックスとの戦いに生涯を費やした二人です。そりゃ通じる物もあるでしょう。

 …という話を、私は中学生の時に知りました。「藤原定家」という名前と先述した和歌のみがその時の私の知っている「藤原定家」でしたが、そこに一気に「生きてたら三島が書いた人」が付け加わった訳です。はい、その瞬間に彼への興味は加速度を増しました。

 丁度中学三年の冬休みの宿題で、国語の先生から「百人一首のどれか一つの歌を題材にして小説を書いていらっしゃい」という、なんだその娯楽、という課題が出されました。喜び勇んで定家の歌を選び、歴史的背景や彼個人について調べまくったのは言うまでもありません。お陰様で今こんな物を書いている訳です。

 

無人島に和歌集は結構ズル

 中学生の時に、今ここに書いただけの理解を出来た訳では当然ありませんから、どうして後鳥羽院はあんなに定家を評価してたのにいきなり掌返したりしたのかな、とか、なんで後鳥羽院のこんな素敵な歌に定家はケチを付けるんだろうなとか、なんで三島はこの人について加工なんて思ったんだろうなとか、折々に彼等の作品をよみ、その都度成長過程で考え続けた結果です。つまり、都度都度作品を手に取る程、私はそれらが好きで、枕辺に置いていたということに他なりません。

 そして、和歌というのは、三十一文字にあらゆる感情を、時には本歌取りなんていう荒技まで使ってぶち込んでくる力業ですので、三十一文字に含まれる情報量はもの凄く多いです。なにしろ中学生がその一つの和歌を題材にして小説がかけてしまう位の情報量です。一つ一つが短編小説といってすら過言でありません。

 その一つ一つに解説が付いた和歌集を無人島に持参しようというのはですから、本棚一個持っていくというのと実は余り変わらないズルだったりします。まぁ作者は同じ人なんですけど、でも定家の書いた物であれば私はきっと、ためつすがめつして飽きることなくつつき回していられる自信があります。何しろ、まだ判らないことも沢山ありますし。

 昨今余りというか殆ど本を読まなくなりましたけど、詩歌の類は手元から離したことはないです。日本語にもの凄く直截に餓えた時、10秒チャージって位速攻で満タンにしてくれるだけの言葉がそこにありますから。

 

 

※追記
 お知り合いの方がご指摘下さいました。「みしはみな…」は「往時渺茫都似夢 舊遊零落半歸泉」という白居易漢詩で「拾遺愚草」に収録されている定家の和訳で、彼オリジナルではないそうです。不勉強が一つ賢くなりました。ご指摘下さったMAXさんありがとうございます。
 白居易ということは佐藤春夫辺りをひっくり返したら何かでそうな気もしますね。
 というか、手元に児童書のオリジナルがあれば久保田先生の記述も意図も正しく判って一番良いんですが、記憶便りなのがなんとももどかしい限りです。