浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

羆のこと

怖い怖いも好きのうち?

 私のYouTubeのお気に入りには相当数羆及びグリズリーの動画が入っています。有り体に申しあげて、ちょっと変な感じに私は羆が好きです。というか、畏れつつも惹かれてやまないというのが正確な所かと思います。これがツキノワだと途端にどうでも良くなるので、この愛はネコ目クマ科クマ属であればなんでもいい訳ではなく、あくまで羆&グリズリー限定であるということを強く主張させて頂きます。

 どの位の愛かといえば、星野道夫さんの「クマよ」を見て(読んで)号泣し、ホントにくっだらないB級映画であるHobo with the shotgunを観てルトガー・ハウアーが羆の話をしているシーンで胸がキュンキュン通り越してギュンギュンいってる位ですかね。

 あの、私今もの凄く下らない話をしてます。この話に高尚なオチは付きません。そもそも私の話は星組の余興同様オチない事が殆どです。

 

入口は三毛別羆事件

 私がこんなに羆愛に塗れ始めたのはそう遠い昔の話ではありません。今昔の日記をざっとチェックしましたが、2011年10月の日記に「今札幌で羆目撃情報が相次いでいるが、羆とかマジで怖くて心の底から超勘弁である。しかし三毛別羆事件の関連書籍を態々買い求めているように、どういう訳かわからんけど、アタシは熊害に対して、殊更に強い恐怖と興味があるようで」という記述がありました。その時既に三毛別羆事件についての知識はあり、手元に「慟哭の谷」と「羆嵐」という最強の羆本はあったようですからきっかけは更にそれより前ということになりますが、いずれにせよ遙か昔というわけではないですね。

 私はお化け屋敷と怪談は泣く程苦手ですが、大変にホラー映画が好きでして、猟奇的なお話もかなり好きな方です。よく殺人犯とか異様な犯罪を犯した人の部屋の中に、ちょっとでも猟奇的な物があるとさもそれが原因のように言われたりしますよね。その伝で言うと私はもう何回連続殺人やら大量殺人やらしてなくてはいけないのか見当もつきません。何しろ部屋の本棚とDVDの棚は大変に破廉恥なことになっているので、愛するホラー映画や猟奇小説に「だからこんな犯罪者が」という汚名を着せない為にも、私は犯罪には縁のない生活をせねばいけません。

 とまれ、そうして好奇心に任せるままにウィキペディア巡りをしていて、恐らく三毛別羆事件にであったのだったと思います。ウィキペディアの淡々とした記述ですらかなり猟奇的ですのでリンクは貼りませんし、グロ耐性のない方は閲覧に呉々もご注意下さい。そこから三毛別の事件に興味を持ち、関連書籍を買い、また他の熊害(ゆうがい、と読みます)、熊による食害事件について調べ…と芋づる式にどんどん知識が増えていきました。昨今はちょっと気になったことを調べようとすると、目の前のPCが誘うWWW(ワールドワイドウェブ)が好奇心が頭打ちになるまであれこれ情報提供してくれてしまうので、私のようなコレクターは止め時がなくて偶さか困る位です。

 そうして羆について知れば知る程、恐怖は募り、怖いと思う気持ちが知ろうとする気持ちに拍車を掛け、なんだか怖れているのか畏れているのかわからなくなって来た頃ようやく、「あれ?私はひょっとして凄く羆が好きなんじゃないのか?」と気付いた、というような次第です。

 

遭遇しないのが一番

 同じネコ目とはいえ、ネコ科の猛獣は狩猟の際に獲物の首を狙って即死させますが、クマ科は体格からは想像が付かない程俊敏とはいえもっと大雑把なので、まずネコ科と違って引っ込まない長い爪をもった太い腕を上から叩きつけて獲物を捕らえ、一番柔らかくて美味しい所から食べ始めます。大体腹部でしょうか。獲物が生きていようが死んでいようがその辺はお構いなしなので、生きたままはらわたを食いちぎられる恐怖がそこにあります。三毛別の被害者に妊婦さんがおり、腹は破らないで、首を切って殺して欲しいと羆に哀願したというエピソードが伝えられていますが、当然羆の方はそんなことは知った事じゃないので、その方もお腹から生きたまま食べられたそうです。

 また「熊の止め足」といって、足跡を追ってきた猟師を欺く為に、自分の足跡の上をなぞるように数歩戻り、そこから横に逸れて身を潜め、追ってきた足跡が途切れて「あれ?」と思った猟師を横から襲う、などという恐ろしい戦術も駆使してきますし、何しろ大きい個体では立って両手を上に上げたら3メートル、そこから何百キロもの体重を掛けて一撃振り下ろされたら頭蓋骨なんてぐしゃぐしゃでしょう。走って逃げようにも人間よりも遙かに早く走るので、捕まるのは時間の問題、ついでに、動くものを見るとそこは流石のネコ目、反射で追いかけるそうです。よく熊にあったら死んだふりをしろとか言いますが、死んだふりをして助からなかった犠牲者は沢山いますので、その時羆が手負いではなくお腹も空いていなく子連れでもなかったら助かるかも知れませんが、その辺りは個体差によるとしか申しあげられません。

 ただ、遭遇して助かった人の話を総合すると、「絶対に目を逸らさないこと」「動くのであれば極力ゆっくり後ずさる」というのが有効ではあるようです。向こうも手負いや子連れや空腹でなければ殊更に人間を襲いたいわけではないので、慌てず騒がず落ち着いて(そんな時にそんなことが可能であれば、ですが)、相手を刺激せずにそっと逃げ出しましょう。しかし、ベテランのマタギの方でも「一番良いのは遭遇しないこと。移動は風上からする、音を立てるなどして、出来るだけ人の気配を知らせて向こうが去るようにする」と仰っています。

 

そんな恐ろしいものをどうして

 …と、自分でも思うのですが、寧ろ畏れているからこそ愛しているような気がします。ただ、間違えて頂きたくないのが、別段私は人間と接触した羆を過剰に愛護せよなどと言うつもりはありません。

 よく人里に降りた羆を猟友会が撃ち殺したというニュースが出る度に猟友会に愛護の方からクレームが付くそうですが、殺させたのはじゃあ一体誰なのか、ということを「殺した」という一点で手を下した人を責める愛護の方は考えて下さっているのでしょうか。羆は執着心の強い生き物で、一度覚えた味は忘れませんし、一度手にした物は絶対に手放しません。福岡大ワンゲル部の羆被害は、羆に一度奪われたリュックを取り返した為にその後何度も執拗に追われることになったことが一因でもあります。一度手にしたらそれはもう絶対に自分の物、取られたら取り返す、そして一度覚えた味は忘れないということは、一度人間を喰い殺した羆は、その後際限なく人を襲い続けるようになります。人を襲ったのではない羆でも、人里で人間の食料の味を覚え、それが山で猟をするよりも遙かに楽に手にはいるとしたら何度でもそこに行くでしょう。そうしたらいずれ人的被害が出ないとは言いきれないのです。 事実、あれだけアラスカの地で野生の熊に親しみ、あそこまで接近して写真を撮って生活していることが可能であった星野道夫さんをまさかの被害に遭わせ殺したグリズリーは、地元の無責任なセレブによって餌付けをされていたグリズリーだったそうです。

 羆の生息地に入り込んで、彼等の領地、彼等の餌場を荒らして存在しているのは寧ろ人間の方であり、別段人が滅びればいいとは言いませんが、人間社会が人間社会をそこで営もうとする限り、相容れない自然は絶対的にあり、どちらを優先するかを決めている(この場合そこを羆に返す選択肢がない)のであれば、感傷的なことを言っている場合ではないでしょう。社会というのは「反社会的」と目された物を排除して成り立つものです。容認したら社会が成り立たない物を「反社会的」と言う訳で、それはその時その時によって変わる価値観ではありましょうが、社会が「反社会」を定義するものである以上、いつ何時なにが対象にされようとも、そこで人はブレるべきではないと思います。

 だからこそ、羆の命を無為に殺させたくないなら、人里に降りてくるようなことにしないこと、そして何よりも無責任な餌付けをしないことです。愛護愛護で無責任に可愛がる一方なら、無責任に殺される命は増える一方でしょう。これは羆に限った話ではありませんが。

 

人為なんてちっぽけなもんです

 私はそこまで好きな映画監督ではありませんが、言わんとする所には共感できなくはない部分もなきにしもあらず、というドイツの映画監督がいます。ヴェルナー・ヘルツォークという人ですけれども、あの人はどこか「人為」にもの凄く皮肉な目線を持っています。彼の撮ったドキュメンタリーに「グリズリーマン」というのがあって、これはグリズリーの愛護に命を賭けて本当にグリズリーに喰い殺されたティモシー・ドレッドウェルという自然保護活動家のことです。詳細はリンクを貼るに留めておきますが、見当違いも甚だしいグリズリー保護を声高に叫んだ男がグリズリーに喰い殺されるというのはなかなかに過ぎた皮肉ですよね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

 ティモシー・ドレッドウェルは、満たされない自分の承認欲求や自己評価を、グリズリーに仮託することで己を成り立たせていたナルシスト、という気が私にはします。別に私は何を羆に仮託しているつもりもないので、同じ羆愛として同列に語られるとしたら大変心外なのですが、さりとてでは己の愛のあり方を明文化できるかと言われると難しい所です。

 辛うじて言えるとしたら、特にこれといった信仰を持たない私ですけれども、人知の及ばない自然の大きな力のような物に対する敬意はもの凄く持っています。ですからどうでもどこかの宗教にその気持ちを振り分けるとしたら、原始アニミズム的な部分での神道に近いのかも知れません(間違っても戦前戦中の国家神道とは無関係です)。私にとっては、羆やグリズリーはその、理不尽さや恐ろしさまで含めて、強大な自然の力の象徴のように思えるのかも知れません。何しろ羆はアイヌ語では「カムイ(神)」とも言われるそうですから。

 

※念の為、「グリズリーマン」で検索すると、ティモシー・ドレッドウェルが被害にあった時のライブ音声というようなものが出て来ますが、今現在ではこれは偽物と判定がついておりますし、本物であれ偽物であれ音声は大変にショッキングですのでご試聴には充分ご注意下さい。