浸透圧

好きなものを好きと大いに言い、自分内の流行り廃りや自分自身を整理整頓したりもする、日々の徒然。

「結婚願望」とかいう謎の奴

「恋愛願望」ならわからなくもないんですが

 世の中には「結婚願望」の強い人達、というのがいるそうです。私の身の回りには結婚している人もしていない人もいますが、格別「結婚願望」とやらが強い人、というのはいたことがない気がします。恋愛至上主義の人なら何人もみましたけれども、結婚願望というのはそういう物とはちょっと違うらしいです。

 昨今は「婚活」という言葉が当たり前になりましたけど、結婚という事柄を欲している人々にとって、お見合いという文化は非常に有用だったのですね。今時お見合い結婚なんて他人様に言えない、というような風潮があって、また地域や親族のネットワークが緩やかになったせいもあって、恐らくお見合いという文化は廃れたのでしょうが、では今時の婚活とやらや結婚相談所で知り合って結婚したパートナーを、そういう風潮の一端を担った方々は一体どのように表するのでしょうか。内実は余り変わりないように私には思えます。

 双方が双方共に「結婚」という事柄を欲して、それを得る為に相手を選んだのであれば、見合いだろうが婚活だろうが大差ないですよね。昔一時期お見合い恋愛なんていう言い方がありましたけど、出会いがどうあれ、知り合ってからちゃんとした関係を作っているのであれば、そこに態々エクスキューズが必要な理由が、私にはよくわかりません。「恋愛結婚」こそが正義という同調圧力でもあるのでしょうか。

 私には結婚願望も恋愛願望も余りないので(そもそも性的志向に関してもの凄く緩くしてしまっている今に至っては、誰とどのように恋愛したらよいのかすら私本人にですらよくわかりませんもん)、恋愛至上主義の方に「人生の半分損してる」くらいの勢いで「モテないからって悲観して門戸を閉ざしちゃ駄目」とか「きっといい人できるって」とか、同情してるんだかなんなんだかもよくわからないお説教的な演説とかされたこともあります。別にモテない僻みで「恋愛なんて」とか「結婚なんて」とか言った覚えは一度もないのですが、至上主義者の前で興味のない体でいたことが相手を非難しているように受け取られた模様です。世の中には色んな人がいると判ってはいましたが、ことジェンダーセクシャリティに絡んだことで要らない同調圧力を受けると私も必要ない反発をせざるを得ないので大変に面倒です。

 

「結婚」という事柄に付随すること

 私の母は私がかなり幼い頃に離婚し、そして私が思春期の多感な時期にもの凄く後を引く問題の多い相手と再婚をしました。実の父も義理の父も私にとっては「母のパートナー」であり、実際どちらも余り「父親」的なことをしてきたりはしませんでした(私がそれを嫌がったというのも勿論大きいです)。いずれにせよ長く男性不在の家庭で育った私には、殿方という生物は身近にいるものではなかったので、今こうしてすっかり「殿方がいると心身共に全く寛げない」という状態になっている訳ですが、そういう私はそのような次第で初手から「結婚」という奴をもの凄く客観視せざるを得なかったと言うことでもあります。

 夢も希望も持ちようがないというものそうですが、自分の目から母のみならず、自分の友達のお母様方や、親類縁者の話などを漏れ聞いたりするにつれ、「結婚というシステムはそもそも色々と面倒臭いぞ」という気がしてならなくなってしまいました。

 私がこの世で一番尊敬する職業は「主婦」です。何故なら主婦というのは本当にきちんとやろうとするともの凄く大変なことで、そうでありながらもの凄く理解されないし評価もされないし有り難がられもしないという、究極の滅私奉公であるからです。私にはとてもできません。だからきちんとこなされている方を心底尊敬します。

 身の回りのきちんとこなしている主婦の方々をみるだに大変そうだと思うのが、まず自分の時間が中々取りづらい、自分時間でのスケジュール管理がし辛い、旦那様や子供の予定に合わせて間を縫うようにして、家事雑事を執り行わなければ行けないという、時間管理の難しさの点です。

 そして結婚、定住ということに付随して出てくる全ての人間関係のハブになる必要がある、ということ。結婚すれば義実家とのおつき合いも出来ましょうし舅姑小姑とうるさ方もおいででしょうし、何よりまず好きで結婚したパートナーとの関係ですら、日常生活の中にそれが入り込んでくると愛だの恋だのではどうにもならないことも沢山出て来ましょう。

 食べる物一つ、着る物一つ、家財道具一つにしても、自分の好きに自分の裁量でどうこうするということができなくなることも出て来ます。味付けは相手を教育すればいいとしても、柔軟剤の匂いが気に入らないの、カーテンの柄が趣味に合わないの、そんなポスターを貼ってくれるなだの、子供が出来たら当然何もかも子供中心の次期というのは確実に出来てしまいますし、そういう中、幾ら育児も分担して担うとパートナーが言ってくれた所で、十月十日の間の辛さや痛さまで代わって貰える物でもありませんし、産まれてからも母親でなければならないことは沢山存在しますし、そういう中、夫婦がどういうスタンスで物事にあたり、関わり続けていくのかというのは、本当に本当に難しい問題だと思います。

 おまけに殿方の女性への甘えというのは畢竟「母性に対する訴えかけ」ですから、基本際限がないと思って良いでしょう。今のご時世に一馬力じゃ食えないから女性も働くのが当然、同じだけ稼ぐのも当然、それでも家事はやっぱり女性が中心になって回して貰うのがベスト、育児に於いてはなにをかいわんや、そして社会で戦って疲れた自分を癒して欲しい、なんていう虫のいい話はやっぱりザラにあるようです。丁度今日そんなような友人のコメントを見かけました。

 我が家なんては寧ろ最初から破綻している所がスタート地点ですので、どう荒れようとも痛くも痒くもないというか、荒れない道理がないので問題が生じるのは当然とばかりに荒れ放題で放置ですが、そうでないご家庭の中で、種々の問題をどのようにこなしていくのか、想像するだに大変なことだろうと本気で頭が下がってしまいます。

 

何を求めて「結婚」というのか

 結婚に求める物は、きっと個人によって全然違うのだろうと思います。この手のことに関しては本当に貧相な想像力をフル稼働してみるとして、例えば、「結婚していること=人として破綻していない、まともであるということの裏書きになる」という風潮は、恐らく日本の社会の中にまだ根深く残っているのだと思います。親御さんからの「孫の顔が見たい」という攻勢もありましょう。

 けれど、そうした外的要因を括弧でくくって横に置いて、個々人が結婚に何を求めているのかというと、殿方のドリー夢のことは私には判りませんが、女性にとったらやはり、昔は女性が稼ぐ手段はもの凄く限られていましたから、そういう意味で「食べさせて貰う」という側面はかつてはあったでしょうけれど、今はどうなんでしょうか。自分自身も働こうと思えば働ける、逆に男性の雇用自体が過去程安定している訳ではなくいつ何時どうなるかわからない、となれば結婚即安定とも言いがたいと思うのですが、やはり安定を求めてという人は今でも多いんでしょうか。人と違う事をしていたくない、という外的要因から誘発されるようなことは、今時分大分減っている気がしますが、それでもやっぱりそういう人はいるんでしょうか。女性として産まれた以上出産がしたい、子供が欲しいから、という人はまぁいるのかもしれませんが、別段結婚しなくても子供って産めますよね、極端な話。何が何でも結婚、ということに固執する理由って何なんでしょう?

 凄く好きな人がいて、その人と家族になりたい、その人に何かあった時、例えば入院するようなことになった時に、なんの面倒もなく同意書にサイン出来る立場でいたい、というようなことで、結婚というシステムに乗っかった方が私たちにとっては便利だよね、というカップルの存在なら判ります。けれど、パートナーがいる訳でもなく、ただ単に「結婚という事柄が欲しい」という意味での「結婚願望」という物は、私にとって本当に不可解な奴なのです。

 もしも今婚活をしている、結婚という事柄がしたい女性がいたとして、そもそも法律的には事実婚にしかならないし、私は甲斐性なしなのでとても食べさせてはあげられないし、子供は絶対に欲しくないし、家事がもの凄く得意っていう訳でもなく、あげられる物は愛情と猫のいる生活だけだけれど、それでも私と結婚してくれる?と凄く尋ねてみたいです。それでいいよ、という女性がもしいるのであれば、その人の欲している物は第三者からの愛情かもしくは猫のいる生活ということになりますから、欲しい物がはっきりして私はスッキリすると思います。でも多分きっと、そういう人はいないんじゃないのかなぁ。

 

今日丁度「レズビアン的結婚生活」という本を読了しました

 ちょっと前に、ディズニーランドで日本初の女性同士のウェディングドレス二人での結婚式というのが話題になったことがあったかと思いますが、そのお二人のコミックエッセイです。読んでいて不思議だったのが、このお二方は、法律的には夫婦という訳では当然ありません。養子縁組の手続きもなさっていないようですから、対外的、日本の法律上では「友達同士がルームシェアしている」という状態ではあるのです。

 それでもご本人達が「結婚式」をして「結婚生活」を送っている以上、彼女達にとってはその「結婚」という言葉には意味があるのだと思います。互いの家族も含めて互いが家族になる、本からはそのように読み取れました。この方達は恐らく、日本に同性婚もしくはパートナーシップ法のようなものが施行された場合、恐らくそのシステムに乗るんだろうな、何故なら彼女達はそれを利用した方が数段スムーズに生きられる筈だから、という風には思います。

 翻って自分のことを考えてみても、私は恐らくパートナーシップ法が施行されても、パートナーがいないのにそのシステムに乗りたい、とは思わないと思います。法律に乗る乗らないは畢竟便宜です。私は母のパートナーである人と養子縁組をしており、法律上では彼が私の父に当たります。実際の年齢差はとても親子と言えるような物ではないのですが、対外的には私もやむなく彼を「父です」と言わねばならないことも多いです。それはそうしておいた方が後々便利というか面倒がないからそういう法律をお借りしているだけだと私は思っています。例えば養子縁組していなければ、万が一彼が亡くなった後の法定相続人で面倒が起こります。ですからそれを予め見越して私は彼と養子縁組をしている訳で、私と彼の関係がそれでもの凄く父娘っぽくなるかといえば当然そうではない訳ですから、この場合本当に法律というシステムを便宜的に使用しているに過ぎません。

 繰り返しになりますが、ないと不利益を被るからあるものを使用する、ならわかります。あるんだからそのシステムを、特には理由がないけれど使ってみたい、というのがちょっと私の理解の外である、ということですね。

 

 世の中には色んな人が色んなあり方をしているものですし、ましてや私は自分がマイノリティですから、そういうのは間違ってるとか正しいとかそういうジャッジをしたい訳ではありません。ただ単に、私は「結婚」「婚活」などの言葉を何となくで使う人に向かって「何が欲しいの?欲しい物がわからないと手には入らないよ?」ときっと言いたいのだと思います。漠然とした希望というのは、漠然としているが故に叶わない物ですから。そして、もしもそれが、漠然とさせておかなければ少々顰蹙を買うような虫の良い図に乗った話であるのなら、己を知り分際を弁えるというのは、品格の一種ではないのかなとも思っているのでしょう。何しろ我が母校の校訓は「恥を知れ」でしたから。そして私はその「恥を知れ」という言葉を「身を省みて己を弁えよ」という風に受け取っていますので。